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ミノル(、1906年 - 1917年?)は、アイルランド産のサラブレッドの競走馬、および種牡馬。イギリス国王の所有のもとで、1909年の2000ギニーステークスとダービーステークスに優勝した。なお、日本にも1969年の第36回東京優駿2着など活躍した同名のミノルがいた。 == 経歴 == アイルランドのキルデアにあった、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐(後に男爵、)の所有する牧場(現在のアイリッシュ・ナショナルスタッド)で生まれた競走馬である。当時のイギリス国王エドワード7世はウォーカーからミノルを含む6頭の馬を借りてその馬主となり、リチャード・マーシュ調教師のもとで競走馬となった。ミノルという名の由来は、日本人の名前であるが、下記の2説がある。 *ホーカーが自分の牧場(前記のアイリッシュ・ナショナルスタッド)の敷地内に日本庭園を造園するために招いた日本人タッサ・イイダ(Tassa Eida)こと飯田三郎の子息であるミノル(実)に由来するというもの。 *1902年に100メートル競走で10秒24という記録を出したとされる東京帝国大学の学生・藤井實(のちに外交官)に由来するというもの〔保阪正康『100メートルに命を賭けた男たち』朝日新聞社、1984年、pp.136 - 137]〕。 アイリッシュ・ナショナルスタッドの公式サイトでは以前、飯田実が由来と記していた〔Japanese Gardens - Tourism - Irish National Stud 〕。また、後述のカナダのミノルパークにミノルの銅像が建立された際には、飯田実の息子であるブライアン(Brian)が「馬名の由来となった人物の息子」として除幕式に招かれている〔Stan Fukawa"The name of the Father of the Boy Minoru" 「Nikkei Images」Vol.15 No.2、pp.6 - 7(2010年、英語、PDF文書)〕。 2歳になった1908年にエプソム競馬場でデビュー戦を飾った。初戦で初勝利を挙げるが、以後なかなか勝ち星を掴めず、結果2歳時はデビュー戦以外は4戦とも2着3着どまりに終わっている。この時点では、陣営からはクラシックでは力不足ではないかと踏まれていたが、年が明けての初戦グリーナムステークスでは打って変わってのよい動きを見せて優勝し、マーシュは意見を覆して2000ギニーへの出走に踏み切った。 2000ギニー当日に本命視されていたのは、2歳時に無傷の7連勝を重ねていたバヤルドであった。しかし冬場に体調を崩したまま出走したバヤルドはそれまでの競馬をできずに4着に敗れ、その一方で目下絶好調であったミノルは2着ファラオンに2馬身差をつけて優勝、クラシックの栄冠を手にした。 大一番のダービーステークス当日、ミノルはバヤルドに対して人気で上回ったものの、1番人気に推されたのはアメリカ合衆国からの移籍馬サーマーティンであった。しかしこのサーマーティンがレース中に転倒するという事故が発生し、その前を走っていたため被害を受けなかったミノルと、前にいたサーマーティンに妨害されたバヤルドの明暗を分けることになった。ミノルはその後も前を走り続け、最終的に2着馬ルヴォアをアタマ差で退けて優勝をもぎ取った。 ミノルはその後、セントジェームズパレスステークスとサセックスステークスにも出走して優勝している。しかしその翌戦に迎えた三冠最終戦のセントレジャーステークスでは距離が持たず、バヤルドの優勝を尻目に着外へと沈んでいる。 4歳時はシティ&サバーバンハンデキャップを初戦に選ぶが、着外に終わっている。この1戦の後に馬主であったエドワード7世が没したため、その賃貸契約が打ち切られて引退することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミノル (イギリスの競走馬)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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